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喜龍一真Blog

癒しと覚醒のスピリチュアリズム

困った時のスピ頼み

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そもそも、なぜスピリチュアルなのでしょうか。

ほんの昔「困った時の神頼み」という言葉がありました。

生きていると、人の力ではどうにもならない問題にぶち当たることがあります。病気もそうですし、家庭環境もそうです。借金、事故、病気、連続する死などなど、わけのわからない不運としか言いようのないことが、立て続けに襲いかかってくることもあります。

私自身、なんでこんなことに?と愕然とするようなひどいことに連続して見舞われ、地面が抜け落ちていくような苦しい経験をしました。

そんな、普通では考えられないような不運が連続するとき、多くの人はどこにも頼れるものがなくなり、切羽詰って藁にも縋りたいと思います。そんなとき、頼ったのがかつては「神様」あるいは「仏様」だったわけです。

 

日本人なら、少々の困りごとなら、神社でお賽銭をあげて手をパンパンするくらいのことは誰でもしたことがあるでしょう。年明けにお神楽をあげたり、厄年には厄払いをしてもらったりは、普通に誰でもするものです。

しかし、その程度では済まない困りごとの時、どの神様に頼ったらいいのでしょう?

 ということで戦後爆発的に増加したのが、いわゆる新興宗教と呼ばれている宗教です。 

日本人の多くは、自分たちは無宗教だと思っています。そもそも「宗教」という言葉自体に違和感があります。

キリスト教イスラム教のような一神教は、本質的に排他的です。

だから、正義の喧嘩が勃発します。「うちのカミさんが正しい」「いやうちじゃ」「なにおう」という感じで、戦争が始まり、大量の人が殺されてきたわけです。

それが宗教だとするなら、日本の宗教はそもそも宗教ではありません。

なぜなら、神様はなんでもありだからです。クリスマスをお祝いし、お寺の除夜の鐘を聞き、神社に初詣をして何もおかしくないのが日本人。

それが「宗教」なんて、そもそも思っていません。

「無宗教」なのは「なんでも宗教」だからであって「無信仰」な訳ではない、というのは日本人の特殊性なのです。

そんなわけで、日本にはものすごい数の宗教団体がありました。

新興宗教がなんで流行ったかというと、「現当利益」を標榜したからです。現当利益とは、わかりやすく言えば「いま抱えているその問題を、パッと解決できる」ということです。

実際にたくさん信者がいるということはそれだけでブランド力になりますし、解決事例も豊富ですし、同情共感する仲間もたくさんいます。苦しんでいる人にとっては、非常に心強く、癒しにもなったわけです。

ところが、20世紀末にカルト宗教というのが出始めます。

まさか日本でテロを行う宗教が出るなど誰も思っていなかったでしょうが、「地下鉄サリン事件」など多くの犠牲者を出してしまいます。

この事件は、宗教なんでもありの日本の宗教観に致命的な打撃となります。

それまでも「宗教は怖い」という、うっすらとした忌避感情はあったはずですが、それはごく一部の好戦的な宗教団体に限られていました。

しかし、この事件によって、宗教の持つ本質的な怖さみたいなものが、露呈したのでしょう。「宗教は怖い」が、我々の中に強く刷り込まれたのです。

 

なぜ宗教は怖いのでしょうか。

宗教は、大なり小なり人を洗脳し、信じ込ませるための装置だからです。 

ただ、宗教だけが洗脳なのか、というとそれは疑問です。

例えば、毎日毎日テレビを見て、新聞を読んで、スマホを見て、同じような情報を毎日毎日インプットしていれば、真実かどうか定かではないことも真実だと疑いもなく信じ込んでしまいます。学校に通って、先生から「あれは正しい」「これは間違い」と幼い子が教われば、疑うことなく信じます。

それが教育なのか、理解なのか、洗脳なのか。その線引きはどこにあるのか。

その線引きは自由かどうかです。

自分の経験と引き合わせ、理論や情報と現実が一致したとき、それを真実だと理解するのは洗脳ではありません。なぜなら、その理由は全て自分にあるからです。

反対に、自分の経験を無視して、理論や情報だけを一方的に注入され、判断する余地もなく真実だと思い込ませるのは洗脳です。理由が自分になく、他者にあるからです。そこには自由はありません。

地下鉄サリン事件」を契機に、宗教のこわさ、すなわち「洗脳」に対する恐怖が強く芽生えたということは、より「自由」でありたいという、日本人の成長段階を意味しているのだとも言えます。

 

戦前におこなわれた軍国主義的教育はまさに洗脳だったわけですが、今の教育にしても、資本主義国家にもかかわらず、お金に関して一切教えないという、微妙に歪んだ内容になっています。

毎日毎日、様々な思念によって歪められ、バイアスのかかった大量の情報が、テレビや新聞雑誌、ネットニュースやSNSなど、スマホやパソコンを通じて押し寄せてきます。

今までは「偉い人」「強い人」がいうことを、そのまま鵜呑みにしていればよかったのです。洗脳万歳だったわけです。

しかし、今や組織は崩壊し、強い人も偉い人もいなくなってしまいました。誰の発したかもわからない大量の情報が、良いも悪いもなく押し寄せてくるだけです。

個人が自立して情報を処理し、自由な意思で真実を判別することを学ばなければ、毎日ニュースを見て一喜一憂するのも、実はステルスマーケティング炎上マーケティングに翻弄されているだけということになりかねないのです。

それも、自由でないという意味では、洗脳と五十歩百歩でしょう。

なのに、宗教は恐れますが、テレビや新聞は恐れないのですから、不思議なものです。

このように考えると、高度情報化社会と言われる現代社会は、ある意味巨大な洗脳装置だと言っても過言ではないでしょう。むしろ宗教だけの問題ではなくなってきているのです。

※私達家族は、情報は自由な意志で得たいと考えるので、地上波は録画でしか見ません。子どもたちはHuluやNetflix、AppleTVしか見ていません。新聞も取っていません。ときどき学校で必要と言われ、新聞紙がなくて困ることはあります(笑)。ヤフーニュースで十分です。必要なニュースは親がもっぱら主観的に解説します。

 

戦後から高度経済成長期までは、自由であることよりも、重要だったのは支え合うコミュニティの存在でした。

しかし、サリン事件とバブル経済の崩壊から、問題を支え合うコミュニティが機能しなくなっていきます。宗教は怖いものと世間が認定してから、新たな信者獲得は難しくなりました。二世三世が増えて宗教そのものの訴求力も低下していきました。

いっぽう人々の抱える問題はどんどん多様化してきています。

「困った時」は増える一方。なのに「頼む神」がない。

苦しみから逃れたい。でも洗脳される宗教は嫌だ。

それが、スピリチュアルが求められる要因なのだと思います。

私自身、宗教に絶望するようなことがあり、洗脳から脱するために大変苦労しつつ、どうやって生きていけばいいかわからないという、切羽詰った状態で出会ったのが、スピリチュアルでした。