喜龍一真Blog

癒しと覚醒のスピリチュアリズム

スピリチュアリズム概論

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もともと、私たちには、いま受け取っている以上の能力があり、感覚がある。

我々の多くの感覚は、眠ったままであり、眠りが簡単には解けぬよう封印がかけられている。しかし、地球全体の次元上昇を迎えたいま、危機的な変容が生じはじめている。 これまで簡単には解けることのなかった封印が、容易に解け始めているのだ。封をとき、新たな能力や感覚に目覚めることを、文字通り覚醒と呼ぶ。

いままで、これらの封印は、自ら望み、修業を重ね、準備期間を得て、初めて封を解くことができた。 簡単には覚醒できないようになっていた。 封を解けば、すぐに扱えるというわけではないからである。

多くの制限された意識感覚の中で生きることに慣れた現代人にとって、 予期すらしなかった感覚が開かれるということは、恐怖以外の何物でもない。 集合的な元型エネルギーでさえ、多くの人々が翻弄され、打ちのめされてしまう。

アニマ・アニムスと言われる性的元型エネルギーに突き動かされ、 社会的に認知されない不倫などの行動に駆り立てられた結果、 人権ごと抹殺されるような制裁を受けるものが後を絶たない。

覚醒とは、集合的な元型エネルギーよりも、さらに遠く深い、高次元から押し寄せてくるエネルギーが 開放されることを意味する。 「オーラが見える」「霊が見える」などといった 他愛もない憧れですむような、生易しい体験ではない。 文字通り、自己分裂の脅威に突如さらされるのである。

封印が緩み、中途半端な覚醒が漏れでてしまった結果、 パニック障害うつ病などの心理的障害から、 さらには統合失調症自閉症など、脳の器質的疾患を引き起こすなど、 もはや看過できないほど、厳しい状況に置かれているのが現代なのである。

これらの多くの諸症状に悩まされる多くの人々は、 今自分に何が起こっているのかわからず、不安のどん底にさらされるだろう。

病院で検査を受けても、肉体的な病気は見つからない場合が多い。 このため、心療内科や精神科に頼れば、 抗不安薬や安定剤に頼るしかなくなってしまう。 原因も理由もわからない以上、抑えこむしか方法がないからである。

裕福なものは、覚せい剤など麻薬の力で誤魔化そうとするだろう。 いずれもそのすさまじい副作用により、多くの人は薬物依存となり、 最悪、廃人とならねばならない。

このような、覚醒に伴う激しい分裂の危機、精神的危機を 「スピリチュアル・エマージェンシー」と呼ぶ。 これらの精神的危機は、いわゆる既存の精神病や神経症とは分けて考えねばならない。

なぜなら、覚醒に伴う分裂、不安定、不安感などは、 本来、準備期間の中で学び、訓練し、身に付けることで、 無限の創造性として活用することが可能になるからである。 そもそも、人間のもともと備わっているものであり、 最初から備わっていないことが、多くの人々に生じるわけがない。

体操選手や戦闘機パイロットが訓練によって、立体的な空間感覚を身につける。 訓練し、開放することにより、やがて熟練することができる。 訓練を受けていない人間からすれば、ありえないような動きができるようになる。 つまり、封印されていただけだと考えることができる。

天才とは、多くの人々が封じている能力を、何らかの必然性があって、 幼少期より開放し、使いこなすことに長けた人間のことである。 自転車も、車の運転も、できない人から見れば魔術のようだが、 できる人から見れば当たり前のように容易である。 できることが増え、やれないと思ったことが可能となる。

霊的な覚醒に関しても同様に考えることができる。

本物の霊媒師やシャーマンが当然のように見えているものは、 覚醒された器官を使いこなすことを訓練されたからである。 いま問題なのは、これらの霊的能力が、 望みもしていない人にも勝手に開かれてしまっている、ということなのである。

それによるさまざまな現象は、すでに毎日ニュースを騒がせている。 不可解な事件が起こりすぎている。 既存の理解を超えた殺意が満ち満ちている。 我々はこのような世界の大きな変化を、 創造よりもむしろ破壊の中に感じなければならなかった。

創造は目に止まりにくいところで起こる。 そしてその進みは限りなく遅い。 植物が芽吹き、成長するのを、瞬間目で見て感じることができないように、 創造は気づかない中で遅々として進む。 しかし破壊は一瞬で起こる。 誰の目にも明らかである。 恐怖と不安が瞬間的に押し寄せてくる。 すでに何度も何度も、そのような現象が、知らせが 目の前に起こり、我々を恐怖させてきた。

それは変化の知らせである。 大きな変化の知らせが何度も何度も押し寄せてくる。 やがてそれは、天災や事件といった「外部」の出来事ではなく、 多くの人々の「内部」で起こり始める。 なぜなら、人の内部は「ミクロコスモス」、 外の世界は「マクロコスモス」というように、 一つながりの円環だからである。

覚醒によって、世界の見方は大きく変わる。 これまでそんな感覚があったことさえ気づかなかったそこに、 多くの情報が飛び交っているのを知るようになる。 もちろん、最初はなにがなんだかわからないだろう。 生まれてからずっと目の見えなかった人が、手術によって眼が見えるようになっても、 その画像が最初は何を意味するのかわからず、むしろ苦痛に思えるのと同じである。

ノイズ、違和感、激しい抵抗、そして恐怖を感じるだろう。 性的な快楽も、経験の浅いうちは痛みでしかないように、 覚醒したばかりの未経験の感覚は、わずかなものでも敏感に感じ、その痛みは激しい。

一度緩んだ覚醒を止めることは困難である。 受け入れ準備できない段階での封印の緩みは、しっかり封をかけ直せば止まる。 しかし、アセンションによる緩みは、宇宙全体の流れの一環であって、 それを止めることは原則的に不可能である。

拒否するなら、薬物投与によって強制的に停止してしまうか、 錯乱させてしまうかしかなく、 それもできないとなれば、自殺しか残されていない。

自殺が最悪の帰結なのは、ここまでの成長進化の歩みごと停止させることであり、 そこから輪廻の再生を図るのは容易いことではないからである。 演劇の舞台に自ら出演しながら、突然「やめます」といって舞台から去るようなものである。 次に舞台に登れる機会ごと失ってしまうと考えたほうが良い。

もちろん自殺が全て輪廻の停止というわけではなく、 その線引は非常に難しい。 社会のため、同胞のため、家族のためという利他の自殺と、 自己のための自殺とを同列に見ることはできない。 そもそもそれを判断するのは、神でもなく宇宙でもない。 もっぱら、自分自身の高次元存在なのである。

とはいえ、覚醒の途上における苦痛は並大抵ではなく、 死の誘惑は常に付いて回ることになる。 生の世界しか感知できなかった人々にとって死は恐怖でしかなく、 宗教的な地獄感なども相まって、 死の世界へ安易に逃れる危機を回避することができた。

しかし、中途半端な覚醒によって生死を超えた認識を得ることができるようになると、 死よりもむしろ生のほうが遥かに恐ろしいと感じるようになる。 拡大した意識状態をただ恐れ、避難することに全精力を使い果たし、 生きるエネルギーを持続することに困難を覚えてしまうのである。

死はある意味では無であり空であるが、全体なる一に帰還することでもある。 卵細胞に例えてみると、よく分かるかもしれない。

我々の肉体の原初の姿は、一つの卵細胞である。 そこには我々のすべての素が含まれている。 もし、卵細胞の中に意識があるとしたら、 その意識はどのようなものであろうか。

「卵である私は、これだけで完全な全体であり、 すべてが備わっている」と感じるだろう。 母親の温かな体内に包み込まれ、なにものにも侵されることはない。 安心とぬくもりとやわらかい心地よさ。 しかし、それはそうしてただあるだけで、身動き一つ取ることもできない。 究極の「ある(be)」だけの存在。それが卵である。

体にとっての原初が卵であるなら、 意識体にとっての原初は宇宙エネルギーである。 すべてのエネルギーはもともと単一のエネルギーであった。 そのなかに再度戻っていくのである。

溶解され、自と他の区別を失い、宇宙全体の中へ溶け込んでいく。 その途上では、これまで自分を構成していたすべての要素が溶解し解消されていく。 こうして、卵のような全体の一部となった我々は、 すべての感覚を失い、自由を失い、行動を失うが、 まったき全体としてエネルギーをたくわえ、癒やされていく。

この宇宙の単一な原初のエネルギーを、多くのスピリチュアリズムは「愛」と表現する。 「愛」には二種類ある。 一つは男性性と女性性の結合を意味する愛であり、 もう一つは母性のような単一の愛である。 ここでいう「愛」とはもちろん後者の本源となっているエネルギーのことである。 我々は、完全な死によって、順調な経過を得ることができれば、 最終的にこのような宇宙の「愛」と呼ばれる原初のエネルギーとなって休息する。

しかしやがて、「自由」を求める衝動がエネルギーとなって注入される。 体で言えば、卵細胞に精子が突入し、受精することである。

精子は純粋な自由衝動といえる存在である。 自由衝動とは純粋な「する(do)」だけの存在とも言えるだろう。 「する」だけの精子が、ひたすら「ある」だけの卵細胞を目指し、全力で動く。 異性との結合と統合を目指して、競争し、突き進む。

精子と卵細胞が結合し、受精卵となった瞬間、 「ある」という愛だけの存在(これを女性性とも言う)と、 「する」という自由だけの存在(これを男性性とも言う)が統合し、 個(Personal)としての人(Self)が誕生するのである。

これまでの静止状態は終焉するとともに、 受精膜が瞬時に生成し、世界との間に線引がなされる。 宇宙の意識体である我々も、同様に自由の衝動を受け入れることで、 自他の区別が生じ、組織化が始まる。

核となる真我(True Self)が中心となり、意識の座であるアストラル体が形成される。 そして受肉すべき胎芽に吸引され、生命の座であるエーテル体と、 感覚と行動の座である肉体が形成されていく。

真我はアストラル体に包まれ、 アストラル体エーテル体に包まれ、 エーテル体は肉体に包まれている。

その包まれた中で、 真我はアストラル体エーテル体、肉体を突き抜けて輝く。 同様にアストラル体エーテル体と肉体を突き抜けて輝き、 エーテル体は肉体を突き抜けて輝く。 この幾重にも重なる輝きを、オーラと呼ぶのはすでに知られているとおりである。

肉体は可視的であるのは言うまでもないが、 この肉体はタンパク質から作られており、 タンパク質はアミノ酸であり、 アミノ酸は有機化合物である。 これらの生態的な物質は、突き詰めれば炭素と窒素、水素と酸素に行き着く。 地球も、その多くは炭素窒素、水素酸素である。 そう考えれば、肉体は地球と同じ素材であると言え、 象徴的に地球を構成する鉱物と同様の次元という意味で、鉱物界と呼ぶ。

このため、肉体は鉱物界に属しているという。

一方、エーテル体は、生命や気と呼ばれるように、 とくに東洋人には馴染深いものである。 わかりやすいのは四季の変化を植物の葉に見ることである。 春から初夏にかけて、木々から芽吹き出す無数の葉を見ると、 訓練を受けていない人でさえ、そこに爽やかな生命の噴出を見ることができる。 エーテル体とは、このように生成化育し、肉体を駆動させるエネルギーのことである。

このため、エーテル体は植物界に属しているという。

アストラル体は、意識の座と呼ばれるが、 表層意識だけでなく、無意識や集合的無意識なども包括する存在であり、 宇宙エネルギーに非常に近い性質を持っている。アストラルとは「星々」を意味する。

産道を通り抜けて生誕し、へその緒が切られ、地球の大気を最初に吸うとき、 太陽系の多くの惑星の影響をそのまま受け取り、刻みこむ。 それが気質や性格の一部に刻み込まれるため、 占星術などが限定的ながら先天的個性を知る程度の意味を持つのである。

とはいえ、星々の影響はあくまで個人の個性を多様化するためのものであり、 未来を運命的に決しているわけではない。 むしろ環境など様々な初期設定は、原初の自由衝動を起こした際の、 体験を求める動機によって選択された「課題」とみるべきである。

アストラル体を備える生物は、意識を持つゆえに行動することができる。 植物は鉱物界から得た生体と、エーテル体しか備えていないため、 純粋な生命の表現でしかないが、動物は肉体、エーテル体に加え、アストラス体を有するため、 その意識レベルには多層あれど(個意識から集合意識まで)、 意識があるために行動することが可能な存在となっている。

このため、アストラル体は動物界に属しているという。

真我(True Self)とは、宇宙意識そのものから分化した純粋な自己そのものであるが、 それゆえ半睡眠の状態となり、通常は認識されない。 このため「エッセンス(本質・真髄)」や、単純に「自己」とも呼ばれる。 人間が思考したり、感情を感じたり、感覚を得たり、直観を得たりするが、 それはアストラル体に組織された自我意識によってなされている。

我々が「自分」と考えているのは、真我を雛形とはしつつも、 その周囲に形成された「自我」の一部にほかならないのである。

 

さて、わかりやすくするために、できるだけシンプルに話を進めてきたが、 いくつか補完しなければならない。

我々が誕生前、原初の宇宙エネルギーだったことを思い出してほしい。 そこに自由の衝動が飛び込み、自他の区別が生じた。 ここで線引されるのは、自他との区別だけでなく、 もともとの宇宙エネルギーの一部としての自己存在をも、 同時に切り離す、ということである。

つまり、誕生するに際し、宇宙にあった存在のすべてが受肉するわけではなく、 むしろその一部だけがエネルギーを大幅に落として分離し、受肉するのである。 宇宙エネルギーの中にそのままあり続ける、もともとの存在を「高次元存在」と呼ぶ。

ハイヤーセルフ」と呼ぶこともあるが、「三次元より上の意識全般」を意味するため、 範囲が広すぎ、注意が必要である。 「個を超越した自己(Transpersonal Self)」とも呼ばれるが一般的ではない。

日本のような多神教の世界観における「神」にきわめて近い、 宇宙の中にいながら、個として活動することのできる存在を意味する。 真我は高次元存在と繋がり続けており、 高次元存在は宇宙にありながら個別化した存在となっている。

誕生前は「大いなる一つ」となって、個を失った状態で癒やされていた。 しかし、自由の衝動を得て誕生することができるようになったが故に、 高次元も個としての覚醒をし始めるのである。

こうして誕生した肉体を持つ存在として自分と、 宇宙に存在する自分という、分裂した二重存在となっているのである。

我々は、地上での無数の体験を得て、解脱へと向かう。 解脱とは、無数の封印の開放と統合を経て、完全なる意識体へ成長を遂げ、 最終的には肉体を持つことなく、宇宙意識の中で、 自由に個として世界のために活躍できる存在へと進化をとげることである。

ここで、ようやく最初の話に戻ることができる。

アセンション以前には、 真我のほとんどが封印され、休眠状態にあるために、 我々はそこからの情報の多くを知ることができなかった。 この世で修業を重ね、解脱の域に達したわずかなグルたちの言葉が それを微かに感じさせてくれる程度でしかなく、 またその多くは秘せられたり、準備が来るまで出会うことのできないよう、 繊細に結界が張られていた。

しかし、地球全体が進化の歩みを大きく一歩進みだし、 結果として人類も、進化の過程を大きく前に進まざるを得なくなった。 このため、宇宙意識から関与してくる解脱した存在たち (我々はそれを天使とか宇宙人とかと感じる)の影響が、 日増しに強くなっている。

銀河神界と呼ばれるその解脱した存在たちの影響は、 とくに強まってきており、我々を急速に覚醒へと向かわせている。 地球そのものの存続が危ぶまれているからであり、 同時にここで急激な進化のジャンプが起こる可能性に満ち満ちているからでもある。

それは銀河神界全体から見ても、 祝祭的な(だからこそ同時に破壊の危機でもある)一大ムーブメントであり、 そのためにこぞって地球へと祝福と支援のために集まってきているのである。

彼らは意識体であるが故に、物理的な乗り物など必要としない。 いわゆるUFOなどは、すべてエネルギーの残滓であり、 可視的なものは不可視な存在のごく一部でしかない。

彼らは強烈なエネルギーそのものである。 その姿を見ることさえためらわれる。 放射線宇宙線)をそのまま浴びるようなものだからだ。

これまでは、我々自身の成長の歩みを最大限尊重し、自由な環境を最大限保証されてきた。 守護はあくまで目に見えない形で行われ、 我々人類は自分たちだけでここまでこれたと信じこんできた。

しかし、ここからはもはやそのような悠長なことをいっていられない、 それゆえに、非常に強く、メッセージが発せられている。

「時間はもう残されていない。地球が求める進化レベルに人類は到達せよ」

このメッセージが、直接高次元存在から一人ひとりの真我に送り届けられている。 それが、近来急激に混迷を増している世界の有り様の意味であり、 我々の直面している課題であり、現象であると理解することができる。

我々は今、巨大な世界の中の小さな一部としてではなく、 等価の宇宙存在として、今できることがあると気づくことができる。 進化のための叡智を学び、変容を遂げることである。 進化のための道具はすでに無数に用意され、 叡智は急速に放たれ始めている。

解脱へ向かって努力を重ね、 人知れず世界のために奉仕する人たちが増えてきている。 これらの人々を、我々はライトワーカーと呼ぶ。

いっぽうスピリチュアル・マスターとは、 癒やしと覚醒のスピリチュアリズムにおけるプロフェッショナルであり、 そのために人生をかけて取り組む人々のことである。

現在、スピリチュアル・エマージェンシーに悩み、苦しみ、 どうしていいかわからないと迷い苦しむ多くの覚醒し始めた人たち。 医学でも宗教でも変わらず、もはや死しかないと思いつめる前に、 周囲にスピリチュアル・マスターを探してみてほしい。

真のスピリチュアル・マスターは、決してあなたの自由を侵さない。 あなたの自由を最大限尊重する代わりに、 あなたの成長への努力を援助することしかできない。 あなたの苦痛を一時的に収めることはできても、 それを成長へと結びつけるための個々の努力なしに 先へと進むことはできないからである。

苦しい時、辛い時に助けを求めるのは必要である。 しかし、苦しみから逃れたら終わりなのではない。 世界の進化のために、成長のために、まずはライトワーカーとして、 さらにはスピリチュアル・マスターとなって、 皆で力を合わせなければならない。

困難な道ではあるけれど、希望の光を探すことをあきらめてはならない。

困った時のスピ頼み

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そもそも、なぜスピリチュアルなのでしょうか。

ほんの昔「困った時の神頼み」という言葉がありました。

生きていると、人の力ではどうにもならない問題にぶち当たることがあります。病気もそうですし、家庭環境もそうです。借金、事故、病気、連続する死などなど、わけのわからない不運としか言いようのないことが、立て続けに襲いかかってくることもあります。

私自身、なんでこんなことに?と愕然とするようなひどいことに連続して見舞われ、地面が抜け落ちていくような苦しい経験をしました。

そんな、普通では考えられないような不運が連続するとき、多くの人はどこにも頼れるものがなくなり、切羽詰って藁にも縋りたいと思います。そんなとき、頼ったのがかつては「神様」あるいは「仏様」だったわけです。

 

日本人なら、少々の困りごとなら、神社でお賽銭をあげて手をパンパンするくらいのことは誰でもしたことがあるでしょう。年明けにお神楽をあげたり、厄年には厄払いをしてもらったりは、普通に誰でもするものです。

しかし、その程度では済まない困りごとの時、どの神様に頼ったらいいのでしょう?

 ということで戦後爆発的に増加したのが、いわゆる新興宗教と呼ばれている宗教です。 

日本人の多くは、自分たちは無宗教だと思っています。そもそも「宗教」という言葉自体に違和感があります。

キリスト教イスラム教のような一神教は、本質的に排他的です。

だから、正義の喧嘩が勃発します。「うちのカミさんが正しい」「いやうちじゃ」「なにおう」という感じで、戦争が始まり、大量の人が殺されてきたわけです。

それが宗教だとするなら、日本の宗教はそもそも宗教ではありません。

なぜなら、神様はなんでもありだからです。クリスマスをお祝いし、お寺の除夜の鐘を聞き、神社に初詣をして何もおかしくないのが日本人。

それが「宗教」なんて、そもそも思っていません。

「無宗教」なのは「なんでも宗教」だからであって「無信仰」な訳ではない、というのは日本人の特殊性なのです。

そんなわけで、日本にはものすごい数の宗教団体がありました。

新興宗教がなんで流行ったかというと、「現当利益」を標榜したからです。現当利益とは、わかりやすく言えば「いま抱えているその問題を、パッと解決できる」ということです。

実際にたくさん信者がいるということはそれだけでブランド力になりますし、解決事例も豊富ですし、同情共感する仲間もたくさんいます。苦しんでいる人にとっては、非常に心強く、癒しにもなったわけです。

ところが、20世紀末にカルト宗教というのが出始めます。

まさか日本でテロを行う宗教が出るなど誰も思っていなかったでしょうが、「地下鉄サリン事件」など多くの犠牲者を出してしまいます。

この事件は、宗教なんでもありの日本の宗教観に致命的な打撃となります。

それまでも「宗教は怖い」という、うっすらとした忌避感情はあったはずですが、それはごく一部の好戦的な宗教団体に限られていました。

しかし、この事件によって、宗教の持つ本質的な怖さみたいなものが、露呈したのでしょう。「宗教は怖い」が、我々の中に強く刷り込まれたのです。

 

なぜ宗教は怖いのでしょうか。

宗教は、大なり小なり人を洗脳し、信じ込ませるための装置だからです。 

ただ、宗教だけが洗脳なのか、というとそれは疑問です。

例えば、毎日毎日テレビを見て、新聞を読んで、スマホを見て、同じような情報を毎日毎日インプットしていれば、真実かどうか定かではないことも真実だと疑いもなく信じ込んでしまいます。学校に通って、先生から「あれは正しい」「これは間違い」と幼い子が教われば、疑うことなく信じます。

それが教育なのか、理解なのか、洗脳なのか。その線引きはどこにあるのか。

その線引きは自由かどうかです。

自分の経験と引き合わせ、理論や情報と現実が一致したとき、それを真実だと理解するのは洗脳ではありません。なぜなら、その理由は全て自分にあるからです。

反対に、自分の経験を無視して、理論や情報だけを一方的に注入され、判断する余地もなく真実だと思い込ませるのは洗脳です。理由が自分になく、他者にあるからです。そこには自由はありません。

地下鉄サリン事件」を契機に、宗教のこわさ、すなわち「洗脳」に対する恐怖が強く芽生えたということは、より「自由」でありたいという、日本人の成長段階を意味しているのだとも言えます。

 

戦前におこなわれた軍国主義的教育はまさに洗脳だったわけですが、今の教育にしても、資本主義国家にもかかわらず、お金に関して一切教えないという、微妙に歪んだ内容になっています。

毎日毎日、様々な思念によって歪められ、バイアスのかかった大量の情報が、テレビや新聞雑誌、ネットニュースやSNSなど、スマホやパソコンを通じて押し寄せてきます。

今までは「偉い人」「強い人」がいうことを、そのまま鵜呑みにしていればよかったのです。洗脳万歳だったわけです。

しかし、今や組織は崩壊し、強い人も偉い人もいなくなってしまいました。誰の発したかもわからない大量の情報が、良いも悪いもなく押し寄せてくるだけです。

個人が自立して情報を処理し、自由な意思で真実を判別することを学ばなければ、毎日ニュースを見て一喜一憂するのも、実はステルスマーケティング炎上マーケティングに翻弄されているだけということになりかねないのです。

それも、自由でないという意味では、洗脳と五十歩百歩でしょう。

なのに、宗教は恐れますが、テレビや新聞は恐れないのですから、不思議なものです。

このように考えると、高度情報化社会と言われる現代社会は、ある意味巨大な洗脳装置だと言っても過言ではないでしょう。むしろ宗教だけの問題ではなくなってきているのです。

※私達家族は、情報は自由な意志で得たいと考えるので、地上波は録画でしか見ません。子どもたちはHuluやNetflix、AppleTVしか見ていません。新聞も取っていません。ときどき学校で必要と言われ、新聞紙がなくて困ることはあります(笑)。ヤフーニュースで十分です。必要なニュースは親がもっぱら主観的に解説します。

 

戦後から高度経済成長期までは、自由であることよりも、重要だったのは支え合うコミュニティの存在でした。

しかし、サリン事件とバブル経済の崩壊から、問題を支え合うコミュニティが機能しなくなっていきます。宗教は怖いものと世間が認定してから、新たな信者獲得は難しくなりました。二世三世が増えて宗教そのものの訴求力も低下していきました。

いっぽう人々の抱える問題はどんどん多様化してきています。

「困った時」は増える一方。なのに「頼む神」がない。

苦しみから逃れたい。でも洗脳される宗教は嫌だ。

それが、スピリチュアルが求められる要因なのだと思います。

私自身、宗教に絶望するようなことがあり、洗脳から脱するために大変苦労しつつ、どうやって生きていけばいいかわからないという、切羽詰った状態で出会ったのが、スピリチュアルでした。

目に見えない法則

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初めまして、喜龍一真です。

これから「癒しと覚醒のスピリチュアリズム」というテーマでお話ししていこうと思います。

私の父は、ある宗教団体の専従者で、私はその子供として生まれました。

それから、50年近い年月を経て、現在は小さな会社の経営者として、リーブスインスティチュートの公式トレーナーとして活躍する妻をマネージメントする仕事を主に行ないつつ、陰陽師師範や箱庭療法士としての活動も並行して行っています。

現在の私は、幸運なことに恵まれた状況の中にいます。

心の綺麗な妻や可愛い子供達に恵まれ、愛いっぱいの日々を過ごしています。

自宅で自由に仕事をすればよく、強制も義務もノルマもストレスもありません。

ありあまるほど豊かというわけではありませんが、家族皆がやりたいことをやりたい時にやることのできる豊かさを受けとっています。

今、あなたは幸せか?と聞かれれば、自信を持って「はい!」と答えることができます。

しかし、最初からそうではありませんでした。

「愛」を求めても、愛してくれる人がなく、孤独で寂しくて、死にたいくらい辛かった時もありました。

「自由」を求めても、仕事に縛られ、休みもなく、朝から夜まで忙殺され、ストレスで体を壊してしまったこともありました。

「豊かさ」を求めて必死で働いても、自分の手元にちっともお金が入ってこない。いい加減にしてくれ!と天を呪ったこともありました。

そんな苦しみの中で、絶望や諦めに支配されそうな時も、かすかな希望にすがって長い長い時間をかけ、辛抱強く歩いてきた結果、幸いにも今、「愛」「自由」「豊かさ」を受け取り、幸せとして味わえるようになりました。

宗教家の息子として生まれ、一時は専従者となりながら、宗教から離れ、独立し、自由な現在の私に至るまで、様々な経験をしました。

困難な壁に行く手を遮られるたび、世界の成り立ちや、自分自身の謎を理解し、学び、修復し、変容することで、現実は少しずつ変化していきました。

そしてその歩みは今も、続いています。

現実レベルでは、どうしようもないと思われるような状況、環境の中では、いくら外に向かって努力をしても限界があります。

組織の壁、学歴の壁、仕事の壁、家庭の壁、お金の壁、環境の壁、世間の壁、経済、法律、世相、暴力、事故、病気などなど、不条理な壁は幾重にも存在します。

その中で、どれほど周りの壁を攻撃したところで、変化させることは極めて困難です。

だからと言って、諦めてしまっては、苦しいだけの人生になってしまいます。

そんな、どん詰まりの中、私が希望を持って学んだのは、多くの先達が語る「目に見えない法則」についてでした。

「目に見えない法則」まさにそれが、スピリチュアリズムだったのです。

私は、子供の頃から宗教の中で育ったので、たくさんの教義に自然と接していました。物心つく頃には諳んじることができるくらい、浸透していたのです。

もちろん、一宗教団体の教義だけが正しいわけではない、と後で知ることにはなるのですが、「目に見えない法則」というものが、この世界に存在することを、当たり前のように受け入れて育った環境は、私にとって得難い財産となりました。

それゆえ、困った時にも、「きっとこの世界の目に見えないところに、問題を解決できる法則が隠れているのではないか」と思ってしまうのです。

たとえ、それが「困った時の神頼み」的なものであったにせよ、私はそれゆえに、学びを諦めることなく、続けられたのではないかと思っています。

結果、私は何も諦めることなく、幸せになることができました。

これからお話しするのは、抽象的な理論や堅苦しい教義ではありません。一人の人間の経験した物語としての、癒しと覚醒のスピリチュアルについて、お話できるのではないかと思っています。

もちろん、私よりもはるかに苦しい状況の人もいるでしょう。私の学んだ法則や経験が、すべての人に有効だとは思いません。

しかし、学ぶ「道筋」は、同じなのではないかと思っています。

高い山を登る道は一つではなく、たくさんの道があります。同じ道は一つもありません。でも、地図を用意し、読み方を学び、装備を整え、目標を決めて歩いていくことに、違いはないと思うのです。

このブログが、以前の私のように、周りを高い壁に囲まれ、身動きが取れず、苦しい状況から逃れられないでいる人の、ささやかな助けになれば幸いです。

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